しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

北京五輪

仕事で関わらない五輪は10年前のロンドン以来。
なんだか不思議な感じ。さびしいような、純粋に楽しめるような。

事前に一生懸命取材をして五輪に臨むと、本番が開幕した後に違和感に襲われる。
自分が取材してきた選手が急に「みんなのもの」になって遠くなっていく気持ちがする。
勝利や敗北で皆が色々なことを言うのに対して、複雑な気持ちになり苛々する事も多かった。
(僕の選手は栄光をつかめない人が多かったから特に)
「お前らに何がわかるんだ」と言いたい気持ちなんかに。

皆、勝敗を楽しむ気満々だし、あれこれ言いたいこと言う気満々だ。
スポーツって、ある意味そういうものだから仕方ないよね。
皆が言いたいことを言うためにあるようなもの。それはそう。

でも僕が取材していたトリノの頃の冬のアスリートはまだ、アマチュアのナイーブさを持った世界だったから、野球やサッカーの選手をくさすように選手を批評する人には殺意すら抱いた。

冬のアスリートは大てい取材に行くだけで喜んでくれた。いつかはメジャー競技の選手のように扱われたいと真剣に願っていた。
それは生活や強化に直結する事だから当然のこと。
でも、どんどん「アマチュアスポーツ」という概念が無くなっていったあの頃、僕は複雑な気持ちでもいた。
得るものがあれば失うものもある。前者の方が多くあってほしいなと願った。

「@@を文化に」みたいな言葉がスポーツではよく語られる。
それは大概「スポーツ選手がそれだけで生活できる状況」という文脈で語られる。
でも違うんじゃないかと、たまに思う。
ボクサーのほとんどがそれだけで生活できていないように、ミュージシャンのほとんどが生活できていないように、本当の文化はどんな苦しい状況でも、それと共に生きていきたいと信じられるもののこと。
そして、その価値をどんな状況でも信じる人がいること。
市場規模も国際競争力も超大事だけど、そこにも罠がある。
文化とは「守っていく価値のあるもの」
そしてそれは経済や数の論理だけではない。

モーグルの取材の時、吹雪で練習ができなくなると、彼らは「まぁ仕方ないよね」と、屋内で談笑しながら吹雪を去るのを待っていた。
冬の、特に山のアスリートは、どうしようもない天候と対峙し続けるから、困難な状況を受け止め、共に乗り越えようとする団結心のようなものがあって、僕は寒さにこごえながら、何だかいいなと思った。

冬のアスリートを応援している。
彼らが歩んできた歳月を想像しながら