しあさっての方向

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五輪開会式と、世界の中心について

意外とシンプルだった開会式。

映像やデザインの洗練はさすがだったけど、良くも悪くも圧倒的なものを想定したので、驚きもあった。

二度目の監督を務めたチャン・イーモウが14年前をどう越えてくるのか、そんな気持ちでいたから。

前回の開会式は圧倒的だった。当時の日記を見返すと、こんな風に書いていた。

(以下引用)

北京五輪が始まった。酔っぱらった頭で開会式を見ている。
 
冒頭の圧倒的な人数による一糸乱れぬ太鼓の乱れ打ちから、その構成された美に圧倒される。花火で描かれた足跡が、天安門を越えてスタジアムに向かう空撮映像など、チャン・イーモウによる映像構成も完璧。
映像のインサートの仕方も含めてテレビでの中継をメインに、そして徹底的に意識した演出 は、過去の五輪にはないものだ。
 
しかし、中国の少数民族も含めた50の民族の子ども達が、中国の国旗を持って入場してきた時に、微妙な違和感を覚えた。チベット問題なんかを考えると、それをやる?って感じ。
 
平和へのメッセージはその一瞬だけ。その後の式典は紙の発明、文字の発明、羅針盤の発明など、中国の文化的な歴史が圧倒的な美と緻密な演出によって展開されていく。
 
にわかにこれまでの感動が、違う意味をもってくる。
多くの人数を使ったマスゲーム的な美は、一つのメッセージをもってせまってくる。
 
美は作る事ができる。感動も作る事ができる。
つまり、人の心は動かすことができる。
傑出した才能と、政治的なパワーと、それに従属する平民によって。
 
社会主義国家、中国の威信を示す為のこれは開会式だ。 北京五輪ベルリン五輪だということなのか。
チャン・イーモウリーフェンシュタールだということなのか。
 
まだ最後まで見ていないけど、たぶん北京は五輪=平和というメッセージでくくる事のできない久しぶりの五輪になるのでは ないかと思う。
 
<敵に勝ちたい>というスポーツのもつきれいごとではない本質や、権力や支配というものに対する欲求を、成長のエネルギーとしてきた人間の本質。 全く肯定することはできないけれど、存在自体を否定することもできない本質を、突きつけら れたような気がした。
 
少なくとも「美」とか「感動」と、「正しい/正 しくない」ということは全く関係がないんだなぁということを再認識した次第です。

(引用終わり)

ふと頭によぎる思いがあった。

昨日のシンプルな開会式。過度な国威発揚感の無い演出。それは逆説的に「我々はもはや、国威発揚をする必要は無い」という事を伝えていたと。

初めての五輪で「世界の文化の発祥は我々なのだ」という事を圧倒的なパワーを費やしてアピールしていた中国。しかし、もはやそういう段階では無い。我々が世界の中心である事は、前提だ。と。

それはきっと強引な深読みなんだろう。でも、それくらいの揺るぎなさを感じてしまった。

二十四節気で始まったカウントダウン。
最後の1は立春。春の始まりの日を開会式に定めたことも、何かの意味を感じてしまったり。

(一橋と廣瀬さんは、ただただ楽しそうだった)