しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

2006年の上村愛子

そりゃ無いよ。ニュースを見た時にそう思った。
高梨沙羅が団体で失格で号泣?
なんであんなに努力してきたアスリートの最後が、失格で号泣なんだ。
競技の厳しさも五輪の残酷さも、もう嫌というほど味わってきた髙梨に。
たとえメダルを逃しても、皆と笑い合う最後がなぜ与えられないのか。
スキーの神様? オリンピックの神様? 
どっちかわからないけど、そりゃ無いよ。

「私、もっと悪い人間にならないといけないのかなって」
トリノ五輪から帰国後、上村愛子はそう語った。
荒川静香の金メダルのみで終わったトリノ
僕らが取材してきたアスリートは皆、メダルを取れずに終わった。
変な話だけど、メダルゼロだったらまた話は違ったかもしれない。
しかし荒川静香の圧倒的な演技と結果は、何か違ったものを突きつけた。
一体これは何なんだろう、と僕は考えた。
荒川静香と他のアスリートの間には何があったのだろうと。
努力の質や量、それだけでは片付けられないものがあるような気がした。

取材してきたモーグルとスピードスケートがメダル無しに終わった後、僕は仕事がなくなった。
総集編のための聖火のイメージカットを撮影するだけの日々。
事前の盛り上げの中心でやるだけやってきた分、
「あれ前田、話が違うじゃん」と、誰も言わないけど皆に言われているような気がしていた。
これはどうしたものか、と僕は考えた。
そして最後のフィギュアの金メダル。
悔しいけど、何か見落としてきたものがあると思わざるを得なかった。
僕はヒューマンストーリーに心を奪われて、困難な状況で頑張ったアスリートには、それに見合う何かが与えられると信じ込んでいた。

強さとは何か。結果を出す人と出せない人の間に何があるのか。
そして、結果を出せなかった人の物語をどのように伝えていけるのか。
圧倒的な勝者には興味はない。それは今も同じ。
でもこれからどんどん勝者の物語が求められ、溢れていくだろう事は予感できた。
それなら、どうするのか。

トリノ五輪閉幕後のサンデースポーツで、トリノコーナーの最終回をしたいと提案した。
3月にはWBCがあり、6月にはドイツW杯のあった年。
でもわがままを言って、8分くらいの尺をもらった。
敗残兵のようなトリノ班が現地で撮影した映像を何とか救いたいと思った。

その為のインタビューでスキー場に上村愛子を訪ねると上村も考え続けていた。
荒川静香にあって、自分にないものを。
そして冒頭の言葉を語った。
「私、もっと悪い人間にならないといけないのかなって」
いやいや上村さん、それじゃ荒川静香が悪人みたいですよ。
でも、言わんとする事は伝わってきた。

トリノ五輪の前、上村が語り、僕らが伝えてきたこと。
それはこんなメッセージだった。
「自分らしく滑れれば、きっと最後に自分らしく笑えるんじゃないかって」
それは嘘ではなかった。でも僕らはその物語に酔っていた。
そんな気構えでは、たった一人の勝者にはなれないんじゃないか。
それがその時の彼女の気持ちだった。

私には他人に嫌われても勝利をもぎとる貪欲さが必要なんじゃないか。そんな事を上村は語った。
彼女がそういった思考にたどりついた経過はすごくわかったけど、でもそんな風に彼女がなれるとは思わなかった。
むしろ、荒川静香はそんな風に悩みすらしない。そんな気がした。
そして僕はどうなんだ。
優しい冬のアスリートの内面に寄せて、甘い物語を連ねていただけではないのか。

2006年3月5日。サンデースポーツ「Road to Torino」最終回。
上村愛子と母親の物語。スピードスケートの及川佑と、代表になれなかった小林正暢の友情の物語。バイアスロンの夫婦の物語。そしてスケルトンの越選手の物語。
1分から2分の物語のオムニバス、それはその後のアナザーストーリーの原型となった。
センチメンタルだけど、厳しさもある物語。
プロフェッショナルに敗者の物語を作っていきたいと、心に決めた。

そして、時は流れる。
あの頃、自分の気持ちをどうしてもうまく語れなかった上村さんは、さらに悔しい思いをたくさん重ねて、今や「メダルに届かなかった人の代弁者」として抜群の安定感を見せている。

高梨沙羅に、これからどんな時が流れるのか。
それすらもお節介な思いかもしれないけれど、
いつか高梨が優しい瞳で、うまくいかなかったアスリートの思いを代弁しているかもなと想像する。
せめて、そうであってほしいと。