しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

「おかえりモネ」に少しだけ

 

 

大好きだった「おちょやん」の流れで「おかえりモネ」も、ほぼ全部見ている。毎日超楽しみ!ってほどでは無いけれど、何となく気になって見続ける感じ。

 

繊細な台本と巷で高評価っぽいのは、納得。特徴は主人公たちの心の傷、それはあまりドラマチックではない。

東北の震災がドラマの中心にあるけれど、描かれるのは震災で大切なものを失った傷ではなく、震災で失った人の近くで「何も失わなかった自分」への罪悪感。誰かを助けられない苦しみではなく、誰かを助けようとする自分は自己満足でないかと感じてしまう気持ちが描かれる。

ある種、直接な傷ではなく、抽象化された傷。傷からの距離とでも言うべき感情。

 

複雑な感情は心の奥に沈み、主人公は自らの傷と向き合うことができない。

それを知ってか知らずか暖かく見守る周囲の人も、優しさゆえに、結果的に主人公の傷を「そのままに」していく。

悪い人はいない。みな優しく見える。でも目を凝らしてみると、みな自分の傷にとらわれていて、故に少しだけ自己中心的で、そのしわ寄せは微妙に主人公を苦しめていく。

 

今っぽいと言えば、今っぽい。心の動きは主に「眼差し」で描かれる。

最近の回では暗い眼をした妹が、主人公に「ずるい」と言って、すぐに取り消す。職場の年上の先輩は「永浦さんって何か重い」とあっけらかんと言って、物語はそのままに進む。

 

空気を読み取り相手の感情を敏感に感じてしまい、でも表面的にはスムースにコミュニケーションを続ける優しい若者たちの姿が重なる。

そして若干の苛立ちも感じる。

 

細やかな心理戦のなかで、決して根本的な矛盾は明示されない。

まぁ、ケン・ローチ 的に社会の矛盾と戦えとは言わないけれど(そりゃそうだ)でも彼らに不幸をもたらすものは、「私たちにはどうすることもできない」震災であり天候である。「天気の子」にも通じる、社会構造への視線は徹底的に回避された内省的な世界。

 

象徴はテーマソング。とてもよくできたポップナンバー。森の中をめぐる風のように、途切れることなく言葉が連なっていく。僕らの「気分」の良き部分だけを掬い上げるように。

 

 ヤジロベエみたいな正しさだ

 いまこの景色の全てが笑ってくれるわけじゃないけど

 それでもいいこれは僕の旅

 

 昨夜の雨の事なんか 覚えていないようなお日様を

 昨夜できた水たまりが 映して キラキラ キラキラ

 息をしている

 

 高く遠く広すぎる空の下 おはよう僕は昨日からやってきたよ

 失くせない記憶は傘のように 鞄の中で出番を待つ

 

 手探りで今日を歩く 今日の僕が あの日見た虹を探すこの道を

 疑ってしまう時は教えるよ

 あの時の心の色

 

とてもレベルの高い歌詞と音楽。

僕の気分とも、どこかシンクロする。

傷ついた心を、優しく撫でてくれるような気持ちがして、だからひねくれた僕の心が反抗する。

少し滑らかすぎる、と。

 

「ど阿呆!」と啖呵を切る杉咲花の「おちょやん」は、正反対だった。極端なほどの貧困や、父親のどうしようもない弱さやズルさ。旦那の裏切り。あり得ないほどのダークサイドを、これでもかと主人公に背負わせて、その苦しみを、演劇という装置でファンタジーとして昇華していく物語。(それはそれで、ちょっとやり過ぎなきらいはありました)

きっと「モネ」とはアプローチが正反対で、どちらがどうとは言えないけれど、それでも「モネ」が相当な冒険をしている事は認めざるを得ない。

 

そして、ドラマというジャンルが今のテレビ表現の中で、唯一時代の気分と、同じスピードで走ろうとしている事も。