しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

森達也の「i 新聞記者ドキュメント」を見る

森達也の映画はA2以来。

「なんとなく、わかったような気になっていたもの」を取り上げて、流通しているイメージと映像から浮かび上がる実像との差を突き付けるのが森映画の真骨頂。
望月記者のことも菅官房長官との闘いについても、なんか知ったような気持ちになっていたけれど、それが二次情報の積み上げで出来上がったある種のイメージだったことに気付かされた。

映画の中の望月記者は、森さんに対してもタメ語でガツガツ行くし、ある意味ガサツなくらいパワフル。
彼女の内面や個人史には入っていかないから、ある種の物足りさや定まらなさも感じられるが、それはきっとあえてなのだろう。

(社内でのあれこれも取材させた東京新聞も何気に凄い)

組織の中での個人としてどうあるべきかとか、右も左も集団化することの違和感とか、今、自分が考え続けていることが、ど真ん中に描かれていました。

ただし作品全体としては、森さんにしてはキレがイマイチで内蔵を抉られたり、脳味噌を揺さぶられるような衝撃は少ない。
そして音楽などいくつかの演出は、明らかにテクニカルなレベルでどうかなとも思えるところも。

完成を急に早めたとか何か事情があったのかとか、もしかしたら100パーセント自分で作りきった作品じゃないのかなとも思わせたけれど(本人のモノローグで、大事な部分を語らねばならなかった所に、それを一番感じた)
色々なマイナスを差し引いても、今のタイミングでこの作品をリリースした意味は大きいと思う。

少なくとも、同業者の皆さんは見て絶対に損はないす。

勝てたよ、ドネア。

大変申し訳ない気持ちです。
ドネア、本当に申し訳ない。
絶対に敵わないと思っていました。

上の階級から落としてきたサイズの違いはありましたが、それだけではあの戦いはできない。
あの年でどれだけ練習して研ぎ澄ましてきたのか。井上を心からリスペクトして。
そのことが伝わってきて、心を打ちました。

そうです。私は最初からドネアを応援していました。非国民的な何かです。仕方ないっす。そういう人間です。ラグビーでも・・・(以下自粛)
でもな、あのボディをもらわなければ勝ってたんだよな。(判定は、ちょっと開きすぎですね)

そして井上。
強すぎて名勝負がなかった井上の、これが名刺がわりの一戦になるでしょう。
あの苦しい戦いを勝ち切った意味は大きい。
セミファイナルでの弟の敗戦からの嫌な流れも含めて、本当の強さを証明したと思います。

その一方で、無限の強さを見せていた井上が地上に降り立った、あるいは引き摺り下ろされた一戦でもありました。
ドネアが見せた井上対策、それは誰にでもできるものではありませんが、ひとつの当たり前の事実をこの戦いは示しました。
井上も人間だ、と。
たぶんここから厳しい戦いが待っているような気がします。

何にしても、最高の試合でした。
日本で行われた世界戦、少なくともここ30年くらいの中では1・2を争うレベルの試合だったんじゃないかと思います。世界の年間最高試合になる可能性すらあります。

ボクサーにとっての幸せとは、勝つ事だけじゃなく、本当にリスペクトできる相手と出会い、ベストをぶつけあう試合ができることができることだと思うのですが、井上は今夜その最高の幸せの中にいると思います。

それでもやっぱり。ドネア、残念。

井上尚弥の試合は見たくない

明日はドネア✖️井上尚弥
楽しみかと言われると、実はあまり楽しみではない。「見たくない」気持ちすらある。

それはちょっと言葉にはできない。それくらい既存のボクシングの常識を井上尚弥は壊してきた。
井上の存在には、これまでボクシングが積み重ねてきたものを否定するような禍々しさがある。

マイク・タイソンと重ね合わせる論調もあるが、井上に比べればまだタイソンの方が理解できる、気がする。それくらい井上の強さは異質だ。

恐らく井上は勝つだろう。しかも圧倒的な勝ち方で。あの長谷川穂積を打ち砕いたフェルナンド・モンティエルを、圧倒的な強さで倒したノニト・ドネアをだ。
とてもざわついた気持ちでいる。

(もしドネアが勝つとしたら、徹底的なステップワークでカウンターを狙うことだろう)

拮抗した試合になってくれればいいな、というのが正直な気持ちだ。

尊厳 2019

「君たちが大切にしてきたものは、俺たちの力でどうにでもできる、大したこと無いものだ」

そう言われている気がする、この頃。

フェアであること。相手の話を聞くこと、意見の違いを丁寧にすり合わせていくこと。

道理に合わない事をしないこと。
過去の人たちが築き上げたものや、専門家が一生をかけて積み上げてきた英知に、敬意を払うこと。

言葉を大切に扱うこと。
言葉を、相手を言いくるめる為だけに使わないこと。

すべての人には尊厳があり、その尊厳をないがしろにしないこと。

そんな事はすべて、どうでもいい事だったのか。
そんなに皆、怒っていないという事は。

 

僕には聞こえる、どこかで笑う声が。

「その時々は格好いい事言ったって、すぐに忘れるんだろう?」
「何かを批判してるようなポーズをしてみたいだけなんだろう?」

「お前らが本当に気にしてるのは、ローンの繰り上げ返済の事や、上司からの評価や、子どもの受験の事だけなんだろう?」

「組織に波風立ててまで、反対を貫く覚悟なんて無いんだろう?」

 

そんな風に舐められているような気がする。

 

他の誰でもない君と君の大切な人たちが、その人生が、舐められているんだ。

気付かないのか。

あいち

芸術に救われたことの無い人生。

それは幸せなのだろうか。


音楽や映画や文学や漫画に救われたことの無い人生。幸せとか不幸せとかじゃないか。


崖っぷちで、真島昌利のソロだけを頼りに乗り切った日々。が、あったからこそ、そうでない人だって理解しようと思える今。

それは大切な自分の一部だ。だから、表現する人になりたいと考えた。

自分の表現が誰かの一部になったら素敵だなと考えて。


とは言うものの。誰だって皆、自分なりの表現をしている。生きるということ。それは間違いなく表現だ。つまり。

(ちょっと飛躍するけど)

自分の人生や自分の表現を大切にするのなら、誰かを大切にできるはず。

自分の家族を大切にするように、多くの人を大切にできるようになりたいな。

無理せずに。

それはそんなに難しいことじゃないはず、だよね。