しあさっての方向

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「2020年大晦日 ボクシング観戦記」


17時半、比嘉大吾の右アッパーのダブルが相手をなぎ倒した。そしてその1時間後。井岡一翔の左フックが無敗の3階級王者の顎を打ち抜いた。
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2020年の大晦日。特別な試合が行われた、それも2戦連続で。
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番組で関わった比嘉の試合は一応見ないとな、初めはそれくらいの気持ちだった。番組では<煮え切らない試合を悔いようやく前を向く比嘉>、そんな感じで描いたものの、本当のところどこまで変わったはわからない。前戦の延長のようなファイトを見ることになるかもな、でもこの試合はオンタイムで見ないとな。それくらいの気持ちでテレビの前にいた。
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試合開始と同時に比嘉が攻めに出た。前戦と比べるまでもない全力のフルスイング。それは例えば、ボクシングジムのサンドバッグ、それもスピードを鍛える軽いやつではなく、そのジムで最も重いサンドバッグを打つ打ち方だった。試合ではほとんど見たことのない全力の連打。
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すぐに解説の内藤大助が反応する。「力んでいる」「これじゃ後半までもたない」。内山すらもそれに同調する。ディフェンスのいい相手は、比嘉の全力パンチの芯は食わない。それでも、比嘉は強打のコンビネーションを繰り返す。
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ラウンドは続く。比嘉のボディブローがヒットする。上下のコンビネーション、そこにアッパーがまざる。すべてが全力。内藤は後半への不安を繰り返す。これじゃだめだと。
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違う、と僕は思う。違わないけど違う。
比嘉は「そんなこともわかった上で」全力のパンチを打ち続けている。このレベルの相手を、このボクシングで倒せないなら「俺はそこまでだ」そんな言葉が聞こえてくる。
そして野木トレーナーも、それを了承している。どこまで打ち合わせた作戦かはわからないが。「やってこい」そして「ダメなら、もう一度やればいいだけだ」そんなメッセージも聞こえてくる。
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2人はそうするしかないのだ。あれか、これかを選択した戦略でもなく、その戦略を無視した暴走でもない。2人には「そうするしかない」ボクシングなのだ。それがなぜ内藤にはわからないのか。
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あるいは内藤も途中から気づいていたかもしれない。内藤は馬鹿ではない。内藤自身も、才能に恵まれないながらも、不器用なボクシングを磨きに磨いて世界まで辿り着いた男。途中から気づいてたはずだ。これは無謀な戦いではない。あるいは選択された無謀さなのだ。しかし、その直感を口にすることができるほどに、勇気はなかったか。あるいはテレビ中継の中に自由さは無かったか。
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地上波のボクシング中継を再生させるために必要なことはただ一つだけ。ラウンド毎のポイントを解説者が言えばいいのだ。WOWOWエキサイトマッチのように。30年にわたって毎週ボクシングを伝え続け、世界から表彰されたその番組では、常にジョー小泉と浜田さんがラウンド毎の裁定で火花を散らしていた。
「わたしは@@の10ー9」「いや、わたしは@@です」ボクシングの判定はそれほどまでに難しく、そして豊かだ。
何かを評するということは、恥をかくことを承知で一歩踏み出すことだ。ボクサーが戦っているのだから、解説も実況も伝え手も戦うべきだ。そんなシンプルな原則を僕は教わった。
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比嘉はその後も、フルスイングのパンチを打ち続ける。そのなかでも上下の立体的なコンビネーションは、比嘉ならではのもの。そして目を見張るアッパー。横軸のフックと、縦軸のアッパー。それが顔面とボディに打ち分けられるとき、野木さんが惚れ込んだという才能が垣間見える。
まっすぐに下から上へ突き上げるアッパーを打てるボクサーは世界チャンピオンレベルでも、それほど多くない。(真一文字のストレートを打てるボクサーがあまりいないように)
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そしてラスト、右アッパーのダブル。下から突き上げるアッパーを打つ時、顔面のガードはできない。
それをダブルで打つということは、もうこれで倒すということだ。そういう戦いを比嘉は戦って勝った。勝利者インタビューはあっさりとしたものだった。野木さんとの感動のシーンもさほどない。つまりそれは、まだ先があるということだ。
階級アップの不安は残ったが、でも悪くない再出発だった。
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井岡と田中のタイトルマッチは18時開始。
それまで過去の名勝負のVTRが流れる。
ちょっと懐かしい演出。今回、ボクシング中継をゴールデンタイムにしなかったことが功を奏した。
無理やり引っ張ったり、生じゃないのに、生っぽくやる一時期のTBS的なスタイルが無くなっていた。
そこで流された過去の日本人対決。
辰吉ー薬師寺、そして畑山ー坂本。日本のボクシングが誇る永遠の宝のような戦いのVTRが
これから行われる日本人対決の価値を高める。
「これは、あの戦いに匹敵する日本人対決なのだ」と
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田中恒成は、それほど追いかけてこなかった。
でも過去のVTRを見ると、そのスピードは格別のように思えた。そしうて井岡一翔。要所要所でその戦いに惹きつけられてきた。玄人好み、と言ってしまえばそれまでなのだが、井岡の魅力はその技術の緻密さだ。どんなにスピードある打ち合いの中でも、すべてのパンチやディフェンスが意図されたものと感じさせる。すべてが練習で積み上げた動き、そして計算されたフットワーク、相手のパンチが届かない位置どり。「当て感」みたいな概念を拒絶するボクシング、それが井岡だった。
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それゆえに、えてしてディフェンシブになりがちであったり、意味不明な引退&復活やジムの移籍もあり、どこか感情移入が難しいボクサーでもあった。
しかし復活後は、攻撃的なボクシングにスイッチして開花する。(それはミゲール・コットの開花にも通じるところがある)
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激しい戦いの中でも、技術の蓄積と冷静な戦術眼を失わないボクシング。井上尚弥と同時代にいる不幸はあるが、その技術力ではおそらくひけをとらないのでははないか。
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試合開始。
田中恒成はスピードで上回り、若さあふれる躍動的なボクシングで襲いかかる。井岡は決定打はもらはないが、ポイントで井岡にふることが妥当か、逡巡しながらラウンドは続く。
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派手な田中のスピードに対して、井岡はガードの位置から最短距離でジャブを出し、次の瞬間にはガードの位置に寸分違わず戻す。そのノーモーションのジャブの美しさ。出すスピードよりも、戻すスピードに意味がある。派手さはないが、積み重ねた日々が伝わってくるジャブ。
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そしてラウンドを重ねるうちに、井岡が制空権を把握していく。ここからここまでが俺の距離で、そこから少し離れたところがお前の距離だ。その線を引いて、そのバリアのような空間を身にまとってさらに押し込んでいく。
普通は中間距離からパンチを出せる田中の方が有利。しかし、そこからのパンチを打ち落とすディフェンス技術を身にまとって井岡は前進する。「井岡のパンチが届かない距離」が「田中がそれ以上入れない距離」に変わる。
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試合後に田中は語った「ここまで差があるなんて」
それは当たっていて、ちょっと外れている。前半の嵐のような猛攻で一発でも当たれば、試合は変わっていた。本当にそこまで差があったのかはわからない。しかし相手を分析して臨むその姿勢には差があったかもしれない。
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左フックでダウン。思わず声がでた。僕には見えてなかった。そしてもう一度。同じ左フック。もう答えは出ていた。田中を見切るだけの時間を田中は与えてしまった。
きっと、田中には参謀が必要だったのではないか。
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おそらく二人は再戦をしない。つまり、田中はあの圧倒的な敗戦のイメージを抱えたまま歩むということだ。それを払拭する機会は井岡に勝つしかない。でもその機会はきっと訪れない。
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でも、だからこそ、一敗地にまみれた田中の将来に興味が湧いてくるのも事実。すべての格闘技、もしかしたら全てのスポーツの中で、ボクシングほど「試合数」の少ない競技はない。
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自分の強さや正しさを証明する機会。
自分が燃え上がるような相手と戦う機会。
それは、人生で一度か二度くらいかもしれない。
ボクサーが生きるのは常に、戦いの前と戦いの後の時間。その「何も証明できない時間」に耐えて生きていく。
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それはどこか僕たちの人生にも似ている。