しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

敗北

僕らは薄々気付いている

僕らはもうすぐ、何かを失うだろう

仕方ないよ、と僕らは言うだろう

誰も悪く無いよと、誰かが言うだろう

みんなで乗り越えようと、みんなが言うだろう

忘れる事は得意だから、自分を誤魔化すことも

起きてしまった事を、いつまでも言ってても仕方ないと

(1945 2011 そして2020)

僕らはもうすぐ負ける 

僕らの心は打ち砕かれる

嘘くさいと思いながらも、

流れに逆らわずにきた末の帰結に打ちのめされる 

先んじて煽ってきた人も

地道に準備してきた人も

何かのおこぼれにあずかろうとした人も

それぞれにショックを受けて それでも

前を向くしかないだろう

でもそれは目をつむることではないだろう 

僕らはその時こそ見なければならないのだろう

自分たちの姿を

いつまでも大人にならない子どもの群れとして生きる 

自分たちの姿を

火曜日

火曜日はボランテイアの日。朝9時に浅草橋の事務所からハイエースに乗って寄付される食べ物を集荷する。小雨まじりの首都高、あちこちで事故や渋滞が起きている。大きな車の運転はまだ慣れない。知らないうちに速度が落ちていて、車の流れを淀ませてしまう。

川崎の大型スーパーで集荷ケースいっぱいのあんパンやカレーパンを積んで、青海の倉庫でバナナの段ボールを積む。バナナは重くて大変だけど、倉庫をさばく青年は親切でフォークリフトを手配してくれる。3時間くらいで浅草橋に戻って酸辣湯麺を食べて、Facebookにアップする。パラパラといいねがつくのを何度も確認する。50近いのに承認欲求にとらわれているのも滑稽だ。僕はもっと褒められたいんだろう。

受け取りの伝票を届け忘れたことに気付いて事務所に戻り、喫茶店真藤順丈の「宝島」を読む。船戸与一のように分厚い、船戸与一のような抵抗の物語。沖縄の人たちの厳しくも生き生きとした戦後の物語を第2部まで読み進める。iPhoneで聞くのは、韓国のイ・ラン。いい文章を書くアーティスト。月末にライブを行う予定だったけど、来日できなくなった。音符のようにリズムよく跳ねる韓国語を聴きながら、文章を打つ。例えばこんな文章を打っては消す。

<昨日の夜、内閣支持率のニュースを見て僕は動揺した>

150円でコーヒーをおかわりして「宝島」の第3部を読み始める。音楽はお経のようなラナ・デル・レイ。沖縄の主人公たちの願いは何一つ叶わない。世の中や自分の組織が間違った方向に進んでいると感じてしまう時、何をすべきなんだろうか。雨足が強くなる。何だかイライラした気持ちが消えない。考えてるだけじゃダメだ。考える前に行動しないと、そんな考えもある。今は文句を言わずに一つにまとまろうと言う人もいる。僕らはもっと一人一人になるべきだと思う。でも一人一人の声はあまりにも小さい。やはり組織は必要だ。考えは同じところをぐるぐると回る。

22時近くなると感染者のニュースが増える。もうすぐ今日のニュースは昨日のニュースになる。そんなタイミングを狙ったわけじゃないだろうけど。僕はネパール居酒屋でラッシーを焼酎で割った何かを飲んでいる。

「宝島」を読み終わる。自分の気持ちが、物語につられていつも以上に浮遊していたことに気づく。大切なものを失ったとしても、それでも大きなつながりの中にある。痛みと、痛みから癒えていく感覚と、それでも消えない悲しみや怒りと、それと共に生きていく覚悟を伝える物語。この国に無数の豊かな物語があり、今日も生み出され、それが届いている事が一番の希望のように思う。

明日は仕事の1日。打ち合わせの多い水曜日だ。

損してない

「損をしている」感覚に、とらわれていないか

自分だけが損をしている
正当な評価や対価を得られていない 
そんな考えに囚われていないか

努力や苦労が認められず
自分が得るはずのものを、得られなかったとき
あるいは
他の誰かが手にしているように思えるとき
とても損したような気持ちになってしまう
そんなことはある
並んだ列に横入りされた時のような、あの感覚

誰かが知っていてくれたら、救われる
自分の気持ちを理解して認めてくれたら大丈夫
結果は同じでも、それだけで全然違う

でもそれって、どういう事だろう
同じことがあっても、
納得できたり満たされなかったり
それって何だろう

「なんだかずるい」
私はこんなに頑張っているのに
こんなに我慢して、日々生活しているのに
窮屈なルールに従っているのに
あの人はそうじゃない 
そうじゃないのに、なんだか楽しそう 
だから「許せない」

現実ではない空間にあふれる、呪詛の言葉
誰かを引きずり下ろそうとする
誰かの価値を貶めようとする
禍々しいエネルギー 
それは、どこからやってくるのか

考えを、うまく変えられたらいい
自分の力で自分の考えを

「あなたは何も失っていない
 何も損していない
 あなたがしていることが無意味に思えても、
 決して無意味ではない」と

誰かがそう言ってくれたら、救われるんだから
自分で自分を救うことだって
きっとできるはず

Get up

問題は休校の是非じゃないです。

誰が、何のデータを元に(どんな危機と天秤にかけて)どういう検討の末に決めたのか。

その過程と結論を、誠心誠意伝えようとしない事が問題なんです。

休校の是非は今後の経過や結果を待たなければいけないし、その上でも賛否両論色々な考え方がありうる。

でも、そうじゃない。

大事なことは、怒るべきなのは、一人一人の生活や生命をその手で左右しているという事の重みを全く理解していない、思いを馳せようとしない人間が、これを決めたという事です。

何度も繰り返してきましたが、もう一度言います。

舐められているのは、私たち一人一人です。
あなたや、あなたの大切な人の生活が軽く見られているのです。

「かぎかっこ」に囲まれた世界

僕たちは言葉を「かぎかっこ」に囲う。
「かぎかっこ」に囲って安心する。

 

囲われた言葉は「いわゆる、一般的に使われる」という意味合いを持ち、決して自分たちがそう判断している訳ではない、という留保がついて、僕らは安心する。

 

「真実」も「不正」も「疑惑」も「怒り」も
「かぎかっこ」に囲まれると安全なものに変わる。
リスクは共有化される。
安心してください。
色々事情はわかった上で、使っているんですよ、と。

 

クレームが来る前に、クレームに対応する。
そんな内向きの構えの中で、言葉はどんどん弱っていく。 

 

それはそうだ。
「言葉の使い手」が「及び腰」なんだから。
「言葉」もその「刃」をしまうしかない。
「言葉」はただの「道具」になり「約束」は簡単に破られ「嘘」も「言い訳」も「罪」ではなくなる。
「言葉」は「権力」によってどうにでもできる、軽いものになった。
「言葉」は簡単に消せる。簡単に廃棄して、無かったことにできる。
<誤解を産んだとしたら、申し訳ない>
そんな空虚な言い訳を恥じる人もいなくなった。
(最悪だ)

 

言葉を取り戻そう。
もう一度、ブルーハーツのように。
泥まみれになった言葉を、輝きを失った言葉を、誰も期待しなくなった言葉を、もう一度研ぎ澄まし、磨き上げ、本来の意味を取り戻し、鋭く尖らせて、
突き刺すのだ。

同じように戦っている人の心に、諦めかけている人の心に、もはや開き直っている人の心に。

 

自分だけの言葉を。

 

「かぎかっこ」に囲まれた、言葉だけじゃない

冷血

うすうす気付いてはいたけれど、目を背けてきた自分の姿を突きつけられる時がある。

そんな時は、どうすればいい?


たとえば僕は、優しそうだけど本当はちっとも優しくなんかない。

正確に言えば、少し離れたところにいる人には優しく振る舞えるけど、本当は自分以外にあまり関心はない冷たい人間だ。


そんな自分を突きつけられるような出来事が久しぶりにあって

 

そんな時は、どうすればいい?