しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

「日本的な集団と個人に関する一考察」

・集団化すると日本人は強くなる。しかし強くなった集団は、集団化しない(しようとしない)個人や、集団内の異分子への排他性を高める。

・集団化にあたっては、個性や個人的な行動への制限が求められる。それは規律という言葉で表現される。集団に属する人に対しては、個人の考えより集団/組織の論理(規律)への従属が優先される。

・むしろ集団/組織の論理を優先させることこそが、集団への忠誠を示す重要な手段となる。集団の論理より個人の事情を優先させる事は、「わがまま」「和を乱す」ものとして強く忌み嫌われる。
 
・集団に属する人の内面には「自分が矛盾を感じながら我慢している事を、同じように我慢しない人がいるのは許せない」という感情が生まれ、その我慢の度合いが強い人、矛盾に耐えている度合いが強い人ほど、規律からの逸脱や「わがままにみえる個人」に対して強い拒否反応を示す。(芸能人の不倫への反応や、年長者から若者への批判も、この文脈で行われる)

・集団や組織において、目的や目的の正しさは必ずしも必要とされない。集団化する事そのものが目的であったり、形成された集団を維持する事が目的となる。また目的を持って形成された集団も、当初は目的到達への手段であった組織の存続が自己目的化される事が多い。(社会運動や我が社に見られるパターン)

・集団においては、目的よりもむしろルールが重要視される。合理的な目的を持たない集団が求心性を維持するために、ルールによる集団外の人間への攻撃や、集団内の人間の排除が行われる。「集団の論理の優先」を構成員に徹底させるために、集団内のルールは厳格化や先鋭化の方向へと向かう。
 
・ある一方向に組織が進み始めた時、その方向性に意を唱える事は集団から排除される可能性を高めるため、そういった意思表示がされる事は少なく、先鋭化はさらに進んでいく。(校則、いじめ、コンプライアンスブラック企業

・しかしそのルールは、組織の上位者が変わったり上位者が方針変更した場合、何の抵抗もなく180度変わる事がある。個人が求めて獲得したものでも、納得して受け入れたものでもないルールであるゆえ、その変更に異を唱えるものは少ない。むしろ変化を率先して受け入れることが、新たなルールとなる。すでに決まってしまったことに異を唱える事も、スムースな組織運営を阻害する行為として強く敬遠される。(戦後の民主主義もそういった形で進められたことに、今の状況の一因がある)

・組織の上位者への集団的反抗が行われる事は極めて少ない。日本の組織の多くは、個人の集合体としての組織ではなく、個人性を放棄した形での組織を前提としているため、上位者同士の争いが起きた時のみ、そのどちらにつくかという形でのみ、方向性の選択が結果的に行われる。その時、方向性の正義に関する意見や議論より、情勢の理解(どちらが勝ち組か)や、そのための内部情報の把握が優先されるため、組織の自己改革に向けての本質的な議論が人々によって行われる事は極めて少ない。

・内心では集団や組織の閉塞感を打破する英雄的な個人を求めているが、「自分と同じような」属性の人間が特別な存在となることには強い違和感と嫉妬心を抱く。そのような者の失敗は、他のものの失敗よりもより悪質なものとして位置付けられる。市民ではなく、有権者としてでもなく、「消費者」としてのアイデンティティーを強く持つ日本国民。

(こんな暑苦しい文章をマイPCの中に見つけた夜)

・全然絶望はしてはいないけど、自分たちの姿のいまいちさは皆しっかりと見た方がいい。矛盾の上流にいようが下流にいようが、僕らは矛盾の中にいる。で、それを変えることができる。認知の力で。