しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

Game Changer

こうありたい理想と、そうではない現状。
そのギャップに気付き、考えることから成長は始まる。
個人でも組織でも国家でも。

そうでない現状は絶望的でもあるけれど、
それを可能性として捉えることも可能だ。
学習やスポーツの経験はその為にある

乗り越えた後に振り返る頂は、高ければ高いほど自らの糧となる。力を合わせる仲間がいたなら尚更だ。

ルールを変えたアスリートもいる。
競技を生み出した少年もいる。
うまくいかないのなら、ボールを抱えて走り出したっていいよな。エリス少年。
(だけど耳は噛んだらダメだよ、マイク・タイソン

今、当たり前に見えること。
今、タブーとされていること。
その中にあるおかしさに気付くことが、次へのヒントになる。矛盾はどこかで崩れる。その可能性に最初に賭けたらどうだ。
必ず負けるゲームで戦い続けることはない。

アウトサイダーのように探そう。
どこかにチャンスがある。奴らが気付かない隙がある。

人生は

人生は早押しクイズじゃない
仕事は早押しクイズじゃない

だけど時々僕は、誰かの発言を遮って
正解っぽい事を言おうとしている

(しかもそれは自分の正解ではなく
決定権のある人の正解だったりする)

流れを乱す人に心の中で舌打ちすることさえある
賢くなんかないのに 本当は
早押しクイズがうまいだけなのに

カーナビの予想到着時間と競いあうような人生

人生は早押しクイズじゃない
仕事は早押しクイズじゃない

自分の答えに 自分のスピードで近づいていく
そのことの なんて難しいことか

 

 

今週のお題「遠くへ行きたい」

悪口

美しいメロディで
綺麗な韻を踏んで
よく通る声で
悪口を言おう

目指すものが違うんだから
向こうの土俵には乗らず
あくまで気高くいたいよね

論理や道理を信じない人を
論破はできないよ
北風よりも南風 敵味方構わず包み込む
あるいは黒潮みたいに豊かな恵みを運ぶ
大きな流れを目指したい

間違えただけかもしれないから
根には持たないよ
いつだって扉は開けていたい
たとえば映画では仲間になる
スネ夫ジャイアンのように
あいつらだって仲間だ
ものすごく大きな意味では

(間違った発言や 間違った行動を
 見過ごすことはできないなけれど)

彼らより大きな気持ちで僕ら戦おう
もっと遠い理想を
目指しているんだから

呑み会の夢

楽しかった呑み会のことは 何も覚えていない
楽しければ楽しいほど いつも呑み過ぎたから何も覚えていないんだ
でもそれは魔法のような時間
君が感じていたことを 実は僕も感じていて
僕がうまく言えなかったことを 君が見事に言葉にした
再会した戦友のように力強く握手 そしてもっと強めの酒へ
3時間や4時間はあっという間に過ぎていった

僕らは交互におかわりして
閉店時間や終電時間と駆け引きした
また最初からやり直すのは面倒くさいから
どこまでも呑んでいたかった

誰も覚えていないから
翌朝スマホで写真を見つけると 撮った方も撮られた方も新鮮
(それにしても、いい顔で笑ってるな)
何か粗相がなかったか 探り合うようにメールをやり取りして
「ほとぼりが冷めたら」なんて悪事のような約束をまたかわす

渋谷 新宿 代々木上原 三軒茶屋
錦糸町 南千住 東陽町 門前仲町
中野 高円寺 西荻窪 吉祥寺
上野 新橋 秋葉原 北千住

街の名を呼べば思い出す 覚えていない無数の夜のことを
並んだホッピーの空き瓶 食べ終わった串焼きの串
油で汚れたメニュー タオルを頭に巻いたマスター
すべては美しい夢だったかのように

追憶

久しぶりに家族と長い時間を共にしている。
不思議と穏やかな時間。現実感がない。
実はもう、走馬灯の思い出の中ではないかと思うくらい。

セピア色の毎日。他愛のないことで笑い合う。涙が出そう。

何か痛恨の失敗でもやらかして、間違いなく現実だということを実感しなくては。

間違い電話

門司に住むイラストレーターの黒田征太郎さんは北九州時代に何度か仕事でお世話になった。
今でも年に2、3回、黒田さんから電話がかかってくる。
でもそれは必ず間違い電話。どこかの前田さんと間違えてしまうらしい。

「いやぁ、すみません。いつもいつも」と味のある独特の声で申し訳無さげな黒田さん。でも僕は黒田さんの声を聞けて、とっても嬉しい。「また間違えてください!」と笑って伝える。

今日の昼に、また黒田さんは間違えて電話してくれた。
NHKの前田です!」「あらー、また、すみません」
僕は得意気に奥さんに伝える。鬱々とした気持ちが一気に晴れる。

きっと黒田さんは僕だけじゃなく、たくさんの人に間違い電話をかけてるんだろう。
そしてたくさんの人を幸せな気持ちにしてるんだろう。

僕らの言葉

息子といると、たまに若者の新しい言葉を知れて楽しい。「ワンチャン」とか「それな」も面白かったけど、最近は「ま」とか「そま」とか言う。
「まじか」の「ま」で、「それまじ?」の「そま」らしい。面白いよなぁと思う。

「自分たちにしか通じない」言葉が大事。その感覚って不思議だなと思う。(普段「わかりやすさ」至上主義の中で仕事しているからかも知れないけど)
「通じない」ことにも意味があり、コミュニケーションの濃度が増す面もあるということ。大人たちが真似して使い始めたら、彼らはまた新しい符丁のような言葉を作り出すんだろう。

そういえば僕らの頃も、わざと丸っこい変な文字で書いたりしてたなと思い出す。与えられた文字を、ちょっとした工夫で自分たちのものにしようとする感じ。それは「大人の言葉」に対するささやかな抵抗であり、自意識の芽生えなんだろうなと。
いいじゃん。いいじゃん。

通じることもコミュニケーションだし、通じないことだってコミュニケーション。最近何かと話題の「距離」も、同じようなものなのかも知れないなと思う。

近いことに意味があるのなら、きっと離れることで生まれる意味もがある。強制的な隔離の中でも、何か見えてくるものはあるんじゃないかと。
不自由の中で、見つけられることもきっとあるはず。色々な活動を奪われても「考える」ことを奪うことはできない。少し無理やりだけど、前向きにとらえようとしています。

(「不要不急」という概念についても、少し掘り下げてみたいっす)

そういえば在宅勤務の承認を簡単にするために、僕の携帯は「り」と打つと「了解です」になり、「お」と打つと「お疲れ様です!」になる。
これもある種の若者言葉なのかな。

そ(それでは今日も一日、楽しくやりましょう!)