しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

損してない

「損をしている」感覚に、とらわれていないか

自分だけが損をしている
正当な評価や対価を得られていない 
そんな考えに囚われていないか

努力や苦労が認められず
自分が得るはずのものを、得られなかったとき
あるいは
他の誰かが手にしているように思えるとき
とても損したような気持ちになってしまう
そんなことはある
並んだ列に横入りされた時のような、あの感覚

誰かが知っていてくれたら、救われる
自分の気持ちを理解して認めてくれたら大丈夫
結果は同じでも、それだけで全然違う

でもそれって、どういう事だろう
同じことがあっても、
納得できたり満たされなかったり
それって何だろう

「なんだかずるい」
私はこんなに頑張っているのに
こんなに我慢して、日々生活しているのに
窮屈なルールに従っているのに
あの人はそうじゃない 
そうじゃないのに、なんだか楽しそう 
だから「許せない」

現実ではない空間にあふれる、呪詛の言葉
誰かを引きずり下ろそうとする
誰かの価値を貶めようとする
禍々しいエネルギー 
それは、どこからやってくるのか

考えを、うまく変えられたらいい
自分の力で自分の考えを

「あなたは何も失っていない
 何も損していない
 あなたがしていることが無意味に思えても、
 決して無意味ではない」と

誰かがそう言ってくれたら、救われるんだから
自分で自分を救うことだって
きっとできるはず

Get up

問題は休校の是非じゃないです。

誰が、何のデータを元に(どんな危機と天秤にかけて)どういう検討の末に決めたのか。

その過程と結論を、誠心誠意伝えようとしない事が問題なんです。

休校の是非は今後の経過や結果を待たなければいけないし、その上でも賛否両論色々な考え方がありうる。

でも、そうじゃない。

大事なことは、怒るべきなのは、一人一人の生活や生命をその手で左右しているという事の重みを全く理解していない、思いを馳せようとしない人間が、これを決めたという事です。

何度も繰り返してきましたが、もう一度言います。

舐められているのは、私たち一人一人です。
あなたや、あなたの大切な人の生活が軽く見られているのです。

「かぎかっこ」に囲まれた世界

僕たちは言葉を「かぎかっこ」に囲う。
「かぎかっこ」に囲って安心する。

 

囲われた言葉は「いわゆる、一般的に使われる」という意味合いを持ち、決して自分たちがそう判断している訳ではない、という留保がついて、僕らは安心する。

 

「真実」も「不正」も「疑惑」も「怒り」も
「かぎかっこ」に囲まれると安全なものに変わる。
リスクは共有化される。
安心してください。
色々事情はわかった上で、使っているんですよ、と。

 

クレームが来る前に、クレームに対応する。
そんな内向きの構えの中で、言葉はどんどん弱っていく。 

 

それはそうだ。
「言葉の使い手」が「及び腰」なんだから。
「言葉」もその「刃」をしまうしかない。
「言葉」はただの「道具」になり「約束」は簡単に破られ「嘘」も「言い訳」も「罪」ではなくなる。
「言葉」は「権力」によってどうにでもできる、軽いものになった。
「言葉」は簡単に消せる。簡単に廃棄して、無かったことにできる。
<誤解を産んだとしたら、申し訳ない>
そんな空虚な言い訳を恥じる人もいなくなった。
(最悪だ)

 

言葉を取り戻そう。
もう一度、ブルーハーツのように。
泥まみれになった言葉を、輝きを失った言葉を、誰も期待しなくなった言葉を、もう一度研ぎ澄まし、磨き上げ、本来の意味を取り戻し、鋭く尖らせて、
突き刺すのだ。

同じように戦っている人の心に、諦めかけている人の心に、もはや開き直っている人の心に。

 

自分だけの言葉を。

 

「かぎかっこ」に囲まれた、言葉だけじゃない

冷血

うすうす気付いてはいたけれど、目を背けてきた自分の姿を突きつけられる時がある。

そんな時は、どうすればいい?


たとえば僕は、優しそうだけど本当はちっとも優しくなんかない。

正確に言えば、少し離れたところにいる人には優しく振る舞えるけど、本当は自分以外にあまり関心はない冷たい人間だ。


そんな自分を突きつけられるような出来事が久しぶりにあって

 

そんな時は、どうすればいい?

盛り上がらない

「盛り上げる」という言葉に違和感を感じることがある。
.
ラグビーを盛り上げる
五輪を盛り上げる
パラを盛り上げる
別に悪い事では無いし、むしろ積極的に取り組むべきことなのかもしれないけれど。
「盛り上げる」その言葉に、どこか引っかかる時もある。
.
「盛り上げに不都合な事実には、目を向けなくていい」
あるいは
「皆で、盛り上げようとしてるのに、マイナスな事を言うのはどうなの?」
そんな空気もまとっている、ような気がするから、かな。
.
(ただひねくれてるだけもしれないけれど)
.
何で盛り上げなくちゃいけないんだろう。
すでに勝ち始めているものは、他に任せておけばいいんじゃないか。
僕らはもっと、マイナーなものを応援するためにここにいるんじゃないか。
.
(もちろん頑張っている人を否定するものじゃないけれど)
.
お祭りは苦手。お祭りが好きな人も苦手。
酒は好きだけど大人数の飲み会は苦手。
集団が苦手。集団の論理も苦手。
静かに生きていたい。
適度に、距離を置いて。
.
何かに加担すると、少しずつ自分は失われる。
自分を失うことで、弱くなる人もいるし、
大きな集団(の論理)に身をまかせることで、逆に強くなる人もいる。
何か言いたかったのに、言えなくなる人がいる。
何も言いたいことがない人が、力強くど真ん中を歩いたりする。

偉そうなのはウソだ。
堅苦しいのはウソだ。
威圧的なのはウソだ。
ある状況でうまくいっている奴は、
その状況に最適化されているに過ぎない。
コネクションを誇って、
特命を帯びたような顔をして、
事情にだけは妙に詳しくて、
自分が何をしているかもわかっていない。
.
日本のスポーツ報道に批判的、批評的なものが少ないのはなぜか。
それは第三者ではなく、当事者であるからだ。
新聞社が野球チームを持ち、放送局が相撲を支える。
オリンピックもパラリンピックも僕らは利害関係者だ。
本質的な批判や表現なんてできるわけがない。
(音楽もそうだ。音楽雑誌がフェスを主催したらダメだ)
.
巨大な組織が巨大な力で目指すのが、自らの組織の将来に向けての存続?
それは全くナンセンスだ。
(そもそも僕らは公共的な存在であるはずなのに)
組織の中の個人。
個人的な組織人。
組織にある種の感謝の念も持ちながら、
でも恩ある組織のためにこそ、僕らは自分自身の感覚を大事にすべきではないかと思う。
.
ちょっと極端な意見かもしれないけれど、
なんの結論もないけれど、
全てがグダグダになっていく世の中で、
思ったことは言ってみた方がいいかなぁなんて思う、午前2時。

点ではなく

ある一点で人を判断してしまう、ことがある
もしかしたらその人のもっとも良くない部分があらわれた、行動や言動
その一点で人を断罪してしまう、ことがある

どんなきれいごとを言ってても本音はあれなんだ
ああいうことをしてしまうあれこそが、あの人の本質なんだと

その人のそれまではすべて失われてしまった、かのように
その人に与えてきたすべての評価は偽りのものだった、かのように
騙された、そんな言葉さえ口にして

そんなこと言ったら、自分はどうだ
自分を、自分のもっとも酷い行動や言葉で、判断されたら
すくなくとも僕は、生きていけない
誰にも知られたくないあれこれ、だけではないことが、僕にはある

たとえば人を点ではなく、幅としてとらえてみたらと思う
良いところから悪いところまでの、幅を持った存在
そのてっぺんもどん底もその人だという風に、とらえてみたらと

幅だけじゃなく本当は、奥行きもあるかもしれない
過去から今そして未来へと、変わってゆく形
良い部分とそうでない部分、そのブレンドの具合も
昔とは変わっていってるかもしれない

人のいくつかの点に出会ったら
その人の矛盾を思うのではなく
その点を自分なりにつなげてみたら、どうだろう
いま見えているものとは違ったその人のかたちが
浮かび上がるかもしれない 

星座のように