しあさっての方向

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映画「ribbon」 のんは、自分をわかってる

のんが監督、脚本、編集、主演を務めた「ribbon」を観る。大ファンの私も、大ファンだからこそ、ちょっとというか、かなり不安はあった。何だか学園祭や自主制作映画のような「自我」がダダ漏れな感じになってないかなと。

120分の上映時間。見終わった後、迷わずパンフレットを買った。何というか、最高の自主制作映画という感じだった。コロナで大学が閉鎖された美大生の話。脚本や台詞には、「いや流石にそれは」というものもあった。でも、のんの存在感と感情を揺さぶるシーンが帳消しにしていく。本人が脚本を書き、絵コンテを描いたという映像の中で、のんは剥き出しの表情で地団駄を踏むように苛立ちを表し、次の瞬間、世界が明るくなるような笑顔でキュートに笑う。

のんを表舞台に戻す事になった「この世界の片隅に」戦火の困難にもいつでも笑顔の「すずさん」が、クライマックスで叫び声をあげる。その叫びは戦争を含むこの世の無情への叫び声であり、能年玲奈がその頃被っていた様々な理不尽な状況への叫びでもあった。

<ゔわぁぁ~!>

芸能界で過去例をみないほどに干されていたのん。テレビで彼女を見ることはなく、正に「いないこと」にされていた。その状況が彼女に与えたものは、大きな力に抑圧されるものたちの象徴としての存在。それは抑圧的な時代に生きる私たちにもどこか似ていて、彼女が叫ぶ時、僕らも叫んでいるように思えた。

ribbon」でもそんなシーンはあった。自分の作品を理解されなかった時、芸術を要らないものとされた時、友人に自分の気持ちを伝えられない時、のんは大声で叫ぶ。小動物のように怒りをあらわにする。言葉にできない苛立ちを、全身で表現する。彼女自身の脚本の中で。

発見があった。彼女は十分に自分自身を客観視できているということ。それまで僕は、のんの俳優としての才能は、彼女の特異なキャラクターにふれた脚本家や監督が「当て書き」のようにセリフや台本を書く事で実現されてきたのではないかと考えていた。彼女自身は、それほど「演技」をしていないのではないかと。映画を見る前の心配もそこからきていた。彼女が、自分の好きなようにやったら、ちょっと痛い感じになるんじゃないかと。

でも、そんな事はなかった。映画では計算と計算外が混在する。例えば無数のリボンを心象風景として、映像に浮遊させる演出。そんなに斬新ではないし、PVを初めて作るバンドのような稚拙さを最初は感じた。でも映画が進むにつれて、その稚拙さもある種の味に変わっていく。ぎこちない脚本や台詞回しも、どこまでが意図したものかそうでないかわからなくなり、またどうでもよく思えてくる。

きっとこういうことだ。のんは、自分自身の魅力をある程度理解していて、どこまでが自分で、どこまでが役なのかわからない、その「区別のつかなさ」が自分の本質であることもつかんでいる。

僕はちょっと驚いて、少し安心した。彼女の才能には、まだまだ先がある。

予告編を作ったのは岩井俊二(!)彼はパンフレットでこう書いた。

「皆様、2時間近い劇場映画をあなたは作れると思えます?普通思えないですよ。作れるかどうか以前に、作れると思えるかどうか、というハードルが立ち塞がることを僕は見逃しません、のんさんは思えてしまった」

ある種のアイドル映画、ではある。でも、その映画はアイドルその人が作っていて、その人は時代と共振するシャーマンのような資質を持っている。その自分自身の資質を把握する力と、その自分自身の枠さえも突き抜けていく可能性がある。

テアトル新宿。かなり大きなスクリーンで上映している。彼女が苦手な人にはお薦めしないけど(そう思う人がいても仕方ないっす)気になっている人は、絶対見ておいた方がいいと思う。