しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

僕らの言葉

息子といると、たまに若者の新しい言葉を知れて楽しい。「ワンチャン」とか「それな」も面白かったけど、最近は「ま」とか「そま」とか言う。
「まじか」の「ま」で、「それまじ?」の「そま」らしい。面白いよなぁと思う。

「自分たちにしか通じない」言葉が大事。その感覚って不思議だなと思う。(普段「わかりやすさ」至上主義の中で仕事しているからかも知れないけど)
「通じない」ことにも意味があり、コミュニケーションの濃度が増す面もあるということ。大人たちが真似して使い始めたら、彼らはまた新しい符丁のような言葉を作り出すんだろう。

そういえば僕らの頃も、わざと丸っこい変な文字で書いたりしてたなと思い出す。与えられた文字を、ちょっとした工夫で自分たちのものにしようとする感じ。それは「大人の言葉」に対するささやかな抵抗であり、自意識の芽生えなんだろうなと。
いいじゃん。いいじゃん。

通じることもコミュニケーションだし、通じないことだってコミュニケーション。最近何かと話題の「距離」も、同じようなものなのかも知れないなと思う。

近いことに意味があるのなら、きっと離れることで生まれる意味もがある。強制的な隔離の中でも、何か見えてくるものはあるんじゃないかと。
不自由の中で、見つけられることもきっとあるはず。色々な活動を奪われても「考える」ことを奪うことはできない。少し無理やりだけど、前向きにとらえようとしています。

(「不要不急」という概念についても、少し掘り下げてみたいっす)

そういえば在宅勤務の承認を簡単にするために、僕の携帯は「り」と打つと「了解です」になり、「お」と打つと「お疲れ様です!」になる。
これもある種の若者言葉なのかな。

そ(それでは今日も一日、楽しくやりましょう!)