しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

居酒屋「たろ」へのバラッド

会社の3階通用門を出た先にある小さな呑み屋がオアシスだった。ちょっとアウェイな職場にいた2年前、10時に仕事が終わると毎日のようにそこで漫画を読みながら一人終電まで呑んだ。たまには2人で。多くても3、4人まで。大勢で盛り上がる呑み方は昔から好きじゃない。

マスター1人でやっている呑み屋「たろ」。竹原ピストルに似たマスターは料理もうまいのに、客が料理ばっか頼んで酒を呑まないと、人気メニューを外してしまうこだわりの人。九州出身だから焼酎の話でよく盛り上がった。僕がストレスを抱えて一人でいたい時は察してくれる気遣いもあった。たろで呑まないと一日を終える事が出来ない。そんな日はたくさんあった。会社に近いのに穴場のような呑み屋。気が合う人しか誘わなかった。大切な呑み屋だった。

ふと気になって夕方尋ねたら「来週からは店を休む」とマスターが言う。ここ2、3日客はゼロだったとも言う。来週からはアルバイトをすると言う。バイトと貸付で店の家賃と生活費は当面は賄えそうだと言う。ビールと焼酎とつまみで1700円。2千円を渡してお釣りはいいですと伝えて帰ったけれど、それは自己満足。かなりの確率で店は無くなる。多くの人にとっての大切な場所であった店は渋谷から無くなる。つまりそれは、あの頃の僕のような人間が頼れる場所が無くなると言うことだ。
満員でも10人程度がせいぜいの呑み屋。最近はそれでも客数を制限していたと言う。換気のために扉は開け放たれ冷たい風も入ってきていた。会社の食堂で食べるのと、立ち食いそば屋で食べるのと、リスクの差異はあるのか。そんな違和感も、今はふさわしく無いと言われるのだろうか。

ルールって何だろう。それは「自分で考えること」の外部化だ。ルールがあることで、人は考えることや判断することから自由でいられる。
あるいは、自分で考えることができない(と思われる)人に対してルールによる強制が必要となる。中学の校則のように。
この危機的状況ではルールの厳格な適用が必要だ。僕の半分はそれに納得している。でもどこか違和感も残る。
僕は混乱している。テレビでは責任者が他人事のように心に届かない言葉を発している。何かがおかしい。少なくとももっと検査を増やすべきじゃ無いのか。初動の間違いは、クルーズ船の対応ミスはなぜ免責されたのか。過去が検証されないなら、今のルールの正統性はどう担保されるのか。危機だからとやかく言うな。そう言った形で次々と新たなルールや機器の「元凶」みたいなものが示され、叩かれる。一つ一つの対応が間違っていなかったかの検証や反省は行われない。日本語で言えばわかる概念を、あえてカタカナ言葉で表しプラカードで掲げてみせる「演出」。何かがすり替えられている。何かが大きく間違っている。なぜ責任と痛みが下へ下へとパスされていくのか。ルールを定める事で、ルール違反の人をバッシングするムードが作られ、何かがガス抜きされる。その構図の外の安全地帯に、ルールを定めた人がいるように見える。僕は間違っているのか。もっと怒るべきじゃないのか。マスク2枚で大喜利しているだけでいいのか。

取り替えができない一番のものは、人の命だ。それには同意する。でも、それ以外のものが全て取り替え可能だとは思わない。「仕方ないよね」と人の職業が無くなることを認められるか。職業はその人にとっての命だ。ひとつひとつの店は、その街にとっての命だ。比喩的な表現に過ぎるかもしれない。でも考えてほしい。特に、何かの権力を握っている人には。命を守るための決断をしていることの重みが、その表情からは伝わってこない。ほとんどトリアージの世界なのに。多くの人の命のために、いくつかの命を危機に晒す決断をしている。その重みと痛みが、決断する人から伝わってこない。僕は間違ったことを言っているだろうか。

明日はもう一度、焼酎を持って店を訪ねる。最近はまってる焼酎は「だいやめ」。若い杜氏の感性と意気込みが伝わってくる芋焼酎を持って、僕はその店を訪ねるだろう。
志村けんが亡くなった時に、多くの人は感じたはずだ。自分の一部分がなくなってしまったような感覚を。大切なものがが失われるとはそう言う事だ。部分的に自分が死ぬという事だ。

できるだけ多くの人に元気でいてほしい。知り合いに対しては特に。自分の中にも、エゴイスティックな気持ちはある。もちろんある。こんな状況では、皆自分を守るのに精一杯だ。この文章もそんな文章だ。僕にとっては大切なものは、でも僕や家族や知り合いの命だけじゃない。あなたにとって大切なものは何ですか。