しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

覚え書き

たとえば僕がタレントか何かで、仕事が少なくて困っていたとして。
そこにサラ金のCMの仕事が来たら、僕は断るだろうか?
その仕事を受けないと困る人がいて、僕は求められている。僕はどうするだろうか?

サラ金の危険やマイナス面は伝えずに、お金と才能を注ぎ込んで全く関係のない映像を作り好ましいイメージを作り出す仕事。それが虚構である事を知りながら、誰もあえてそんな事は言わない。

そんな仕事は世の中にあふれていて、選り好みをしていたら扱いにくい人間とされてしまう。僕は必要の無い人間になってしまう。ある種の迷惑もかけてしまう。

僕らが今、抱えている問題はきっとそういった類のもの。嘘である事を知りながら、その嘘に誰もが少なからず加担している自覚がある。だから不正や矛盾に対して真っすぐ向き合えない。どこかやましさを抱えている。誠実な人ほど。

だから高らかに正論を語る人たちに苛立ち距離をおいてしまう。眩しさと疾しさの裏返し。自分がそうありたかった分だけ、彼らの矛盾や失敗を心のどこかで望んでしまう。そして逆に下世話な本音を語る政治家や芸人に眉をひそめながら、どこか解放感を感じてしまう。自分たちの矛盾や疾しさを肯定してくれる存在のように感じてしまう。

局面局面ではみな一生懸命に生きているのに、 こんなに大きな間違いを止められないのはなぜだ。
集団や組織が求めてくるものに対して、僕らはなぜこんなに弱いのか。外国人の日本論ではなく、自分自身で考える必要がある。

僕らが担っている責任は、未来への責任だ。(子どもがいるかどうかは、関係ない)
手渡されたものを、少しでもましなものにして引き渡す。それだけの為に、僕らはここにいる。
そして、忘れてはいけない。
僕らが今、与えられている役割や期待されている行動は、時に僕らが担っている未来への責任と相反する場合がある。組織は間違うし、社会は間違う。善意の総体として間違う場合さえある。 だからスムースに意図をくみとり、スピーディに事を進める事を優秀さと勘違いしてはいけない。

個人個人は出来る限りたくさんの異なる考えや感性を持っているべきだ。
そのバリエーションが、組織や社会の安全弁だ。

異なった本を読み、異なった音楽を聴き、異なった意見を持ち、ぶつかりながら共に存在する。
その多様性を守り、その多様性の素晴らしさを多くの人に知ってもらう為に 僕は行動していきたい。