しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

友情とは何か

「男と女の間に友情は成立するか」
 
学生の頃、誰かの下宿になだれ込んで朝まで語ろうとする時に、
そこに女の子が混ざっていたら、必ずそんな話題が上がった。
議論の為の議論をする為に、時には終電の時間を忘れさせる目的も併せ持ち、
もっともらしい経験談と共に、話されたテーマ。
 
 
「男女の間の友情なんて、どっかにウソがある」
「じゃぁお前の言う友情って何なんだよー」
「うるせー、もっと飲めー」

 
 
不毛だった。ヒマとエネルギーを持てあましてたとしか言いようがない。
少なくともここ数年、そんな会話はした事がない。
しかし仕事仲間は増えたけど、友達はと言われると、あの頃からそんなに増えてはいない事に気付く。
 

現代の文学には「友情」が描かれていないと、岩波新書「友情の文学誌」の著者、高橋英夫さんは真顔で(知らないけど)語る。
そして最近「改めて、友情って何だろう?」と考えてきたそうである。
引用する。
 
 
 仕事の切れ目に「十分間だけ」とか、「いま、二時半か。三時から用事だが、じゃぁそれまで」という具合に、
 友情に意識を向けてきた。(中略)
 「友情」と向き合ってみると、「友情にもさまざまある」というのが最初の感想 だった。
 
 
むむむ。

どう受け取っていいのか、相当にとぼけた文章である。
しかし、筆者はこのくそ真面目とも言えるスタンスで、古代ローマの哲学者にとっての友情を、杜甫李白の友情を、
漱石や鴎外の友情を紐解いていく。
 
 
その中で筆者がこだわっていくのは、友情における「距離」そして「差異」の問題だ。
曰く「人は似たものが似たものと友になるのか。それとも自分とは異なるから友となるのか」である。


どっちの場合もある。終わり。
と終わらせてしまわない所が高橋さんの偉い所で、
遠い地へ赴任した友へ寄せた杜甫漢詩や、13歳下の若者と友情を育んだ森鴎外の例をひきながら、
越える事ができない距離や差異が、逆に友情を純粋なものに昇華するのではないかという結論へと導いていく。
 
 
新書特有の平易な文章で、ある意味当たり前の結論に一歩ずつ近づいていく。
その愚直さに徹するスタイルが意外に心地よく、自分の心が弱っているのかと不安にもなったが、そういうことばかりでもないだろうと思う。
それでは何かと言うと、人と人との間における「距離」という切り口の持つ普遍的な魅力なのではないかと思う。
 
 
現代の文学で友情を描けているものが本当に少ないかどうかはわからないが、
コミニュケーション能力、人脈、ネットワークというものが何よりも必要な能力とされ、
色々な意味での<距離>というものが加速度的に近づいているように見える中で、
豊かな<関係>を育てていく力は自分の中で衰えてはいないか。

そんな気分にさせられた。

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今週のお題「私のともだち」