しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

忘れてた

いつでも買えると思っていたものは そうではなかった
いつでも行けると思っていた場所は そうではなかった
いつでも会えると思っていた人は そうではなかった
どうにでもなると思っていたことは 
どうにもならなかった

忘れていた 
大切な人のことを
必要なものを作っている人のことを
社会を支えている人のことを
私たちの生命がどのように 維持されているのかさえも

考えなくたっていい 
答えが必要になったら 検索すればいい
困難にあったら そのとき検索すればいい
シミ抜きの方法みたいに 
たくさんの答えの中から 良さそうなものを選べばいい
そのうちに 
考える力は失われていた
誰かと力を合わせて問題を解決する力も

いつでも手に入ると思ったから 手放したもの
当たり前のことだと思って 大切にしなかったこと
誰かが より安い賃金でやってくれると思ったから 
替わりはいくらでもいると考えて 大切にしなかった人たち

僕らは復讐されているのだ
僕ら自身に
でも 
まだ間に合う

旅立ちの季節

新人研修とかで若者と話す時は、よくこんな話をする。
「キャリアを重ねるほど、いい番組を作れるようになると思いがちだけど、そんなことないかもよ」と。
そしてこんな事も言う。
「ファーストアルバムが最高で、それを越えられないバンドなんてたくさんいるじゃん」と。

新人の頃に書いた提案は今でも覚えてる。
イデアを実現する力が無かったから、ほとんど日の目を見なかったけど、書いてる時のわくわくした感じは今でも覚えている。

「なんで今、これをやらなきゃいけないのかわからない」
ありがちな指摘を受けて、そんなの「今、僕がやりたいと感じたから」に決まってるじゃんと思った。
口には出せなかったけど。
でも、これは自分が偉くなるしかないなと思ったのは覚えている。

色々な事は、もうやり尽くされている気がする。
90年代だって、それはそうだった。
新しい演出もアイデアも、すでに誰かがやっているような気がして、年を取った人には全てお見通しのような気もしたりして。

そんな時は音楽を聴いた。
ブルーハーツだって、音楽的にはちっとも新しくは無かったよなと。
歌もさほどうまくなかった。
子どもでもわかる簡単な言葉で、シンプルなコードで、大きな声を出して、思い切りジャンプしたら、でもそれは新しかった。何が?

彼らほど恥ずかし気もなく、シンプルなことを力強くやる人は誰もいなかった。
つまり、気合いと開き直りかと。
本当はそれだけじゃないけれど、勝手に力付けられた。

(そして甲本ヒロト真島昌利でさえ、最初の3枚の先に行けたかというと謎だ)

僕の会社は、若者や元若者がどこかに旅立っていくのを見送る季節。
自信満々の人もいれば、不安そうな顔の人もいる。
僕は不安そうな人が好き。
いつまでもくよくよしながら、歩んでほしいなと思う。

簡単に、どこかにおさまらないで。

「日本的な集団と個人に関する一考察」

・集団化すると日本人は強くなる。しかし強くなった集団は、集団化しない(しようとしない)個人や、集団内の異分子への排他性を高める。

・集団化にあたっては、個性や個人的な行動への制限が求められる。それは規律という言葉で表現される。集団に属する人に対しては、個人の考えより集団/組織の論理(規律)への従属が優先される。

・むしろ集団/組織の論理を優先させることこそが、集団への忠誠を示す重要な手段となる。集団の論理より個人の事情を優先させる事は、「わがまま」「和を乱す」ものとして強く忌み嫌われる。
 
・集団に属する人の内面には「自分が矛盾を感じながら我慢している事を、同じように我慢しない人がいるのは許せない」という感情が生まれ、その我慢の度合いが強い人、矛盾に耐えている度合いが強い人ほど、規律からの逸脱や「わがままにみえる個人」に対して強い拒否反応を示す。(芸能人の不倫への反応や、年長者から若者への批判も、この文脈で行われる)

・集団や組織において、目的や目的の正しさは必ずしも必要とされない。集団化する事そのものが目的であったり、形成された集団を維持する事が目的となる。また目的を持って形成された集団も、当初は目的到達への手段であった組織の存続が自己目的化される事が多い。(社会運動や我が社に見られるパターン)

・集団においては、目的よりもむしろルールが重要視される。合理的な目的を持たない集団が求心性を維持するために、ルールによる集団外の人間への攻撃や、集団内の人間の排除が行われる。「集団の論理の優先」を構成員に徹底させるために、集団内のルールは厳格化や先鋭化の方向へと向かう。
 
・ある一方向に組織が進み始めた時、その方向性に意を唱える事は集団から排除される可能性を高めるため、そういった意思表示がされる事は少なく、先鋭化はさらに進んでいく。(校則、いじめ、コンプライアンスブラック企業

・しかしそのルールは、組織の上位者が変わったり上位者が方針変更した場合、何の抵抗もなく180度変わる事がある。個人が求めて獲得したものでも、納得して受け入れたものでもないルールであるゆえ、その変更に異を唱えるものは少ない。むしろ変化を率先して受け入れることが、新たなルールとなる。すでに決まってしまったことに異を唱える事も、スムースな組織運営を阻害する行為として強く敬遠される。(戦後の民主主義もそういった形で進められたことに、今の状況の一因がある)

・組織の上位者への集団的反抗が行われる事は極めて少ない。日本の組織の多くは、個人の集合体としての組織ではなく、個人性を放棄した形での組織を前提としているため、上位者同士の争いが起きた時のみ、そのどちらにつくかという形でのみ、方向性の選択が結果的に行われる。その時、方向性の正義に関する意見や議論より、情勢の理解(どちらが勝ち組か)や、そのための内部情報の把握が優先されるため、組織の自己改革に向けての本質的な議論が人々によって行われる事は極めて少ない。

・内心では集団や組織の閉塞感を打破する英雄的な個人を求めているが、「自分と同じような」属性の人間が特別な存在となることには強い違和感と嫉妬心を抱く。そのような者の失敗は、他のものの失敗よりもより悪質なものとして位置付けられる。市民ではなく、有権者としてでもなく、「消費者」としてのアイデンティティーを強く持つ日本国民。

(こんな暑苦しい文章をマイPCの中に見つけた夜)

・全然絶望はしてはいないけど、自分たちの姿のいまいちさは皆しっかりと見た方がいい。矛盾の上流にいようが下流にいようが、僕らは矛盾の中にいる。で、それを変えることができる。認知の力で。

傾聴ボランティア

コロナの前までは隔週で傾聴ボランティアをしていた
老人ホームを訪ねて お年寄りの話を1時間くらい聞く

多くの方は認知症的な感じで
いつも同じ話を繰り返す

楽しい思い出を話す人もいれば
辛かった話ばかりする人もいる

僕も酔っ払うと同じ話を繰り返すから
さほど気にならず 取材で培った珠玉の相槌を打った
たまに新しい話を引き出せると とても嬉しかった

空襲の話は多かった 疎開の話も
色々な記憶が失われるなかで 何が底の方に残るのか
そんなことを思いながら 相槌を打つ

表情に刻まれた年輪も それぞれに多様で 美しかった
何度会っても 僕のことは覚えてもらえなかったけど
何か役に立っていればいいのになと思いながら

傾聴を終えるとグループの人たちと反省会
メンバーは60代70代の人たち
僕もおそらくは同年代と思われていて
「まだ仕事してるの、立派ねー」なんて言われたりした

誰にも 大切にしているストーリーがあって
心の中で そのストーリーを繰り返している
何度も繰り返すうちにストーリーは磨き上げられていって
本当はどうだったかなんて もう誰にもわからないけれど
その人のなかでそうだったのなら 
それでいいじゃないかと思う

コロナの後は施設を訪問することができなくなって
お年寄りにも仲間にも会えなくなった
みんな元気かな

僕らの失敗

失敗した仲間と酒を呑むことがある
ちょっとした失敗の人もいるし 
結構なレベルの人もいた

僕はいくつかの引き出しから、とっておきの失敗を披露して 
(それは彼らと同じくらいか、それよりももっと)
それを聞くと仲間は力なく、それでも笑う

そんな時に僕が言うことはひとつ
僕が伝えたいことは

何も失わないよ
あるいは失ったように見えたとしても、それは取り戻せる
1回の失敗で失われるものは、そもそも持っていなかったもの
違う形でそれは取り返せる

あるいは
それを証明することが、人生の道
全く失敗しない人もいるかもしれないけれど
仕方ないよ
そんな風に生まれて育ってしまったんだから

でも大丈夫
あるいは
大丈夫であることを、これから証明しよう
それは大成功の人生ではないかもしれないけど
何かではあるはず

映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」感想

面白かった!

政治家に密着したストレートなドキュメンタリー。実はそれはある種のコロンブスの卵。
マイケル・ムーア的な過激さや森達也のような強い批評性はなく、ちょっと前の民放深夜のドキュメンタリー的なテイスト。でも目が離せない。

主人公の誠実な魅力や、そこに対する取材者の期待や、それ故に募っていくある種のもどかしさが淡々と綴られていく。

「なぜ君は総理大臣になれないのか」

シンプルなテーマは、見るものの中で徐々に醸成されていく。それは主人公の問題であり、野党の問題であり、日本の政党政治の問題であり、日本社会の問題でもあることに気付かされる。

監督自身のナレーションも含めて、演出には先進性はほとんどない。でもその実直な取材姿勢が主人公の姿と共鳴していく。

何より2003年から17年間の年月が圧倒的。
家族は成長し老いていく。政治家の家族である事を少しの諦めも含めて受け入れていく過程。妻の表情からは徐々に若さが失われていくが、豊かな年輪も増していく。

政治も人の営みであり、誰しも歳月から自由ではない。主人公が僕と同い年である事もあり、重く響いた。

人生をかけて成し遂げられるのはひとつかふたつのこと。全力を傾けても、届くかすらわからない。
小池新党騒動の中で壮絶に苦悩するクライマックスに心を痛めながらも、人生を賭けるべきものを見つけて、そこに殉ずることができる主人公の人生にある種の羨ましさも感じた。

井手 英策さんの感動的な演説も見所ですし、田崎スシローさんが、チョイチョイいい味出しているのもご愛敬です。