しあさっての方向

本と音楽と酒と詩

僕らの言葉

息子といると、たまに若者の新しい言葉を知れて楽しい。「ワンチャン」とか「それな」も面白かったけど、最近は「ま」とか「そま」とか言う。
「まじか」の「ま」で、「それまじ?」の「そま」らしい。面白いよなぁと思う。

「自分たちにしか通じない」言葉が大事。その感覚って不思議だなと思う。(普段「わかりやすさ」至上主義の中で仕事しているからかも知れないけど)
「通じない」ことにも意味があり、コミュニケーションの濃度が増す面もあるということ。大人たちが真似して使い始めたら、彼らはまた新しい符丁のような言葉を作り出すんだろう。

そういえば僕らの頃も、わざと丸っこい変な文字で書いたりしてたなと思い出す。与えられた文字を、ちょっとした工夫で自分たちのものにしようとする感じ。それは「大人の言葉」に対するささやかな抵抗であり、自意識の芽生えなんだろうなと。
いいじゃん。いいじゃん。

通じることもコミュニケーションだし、通じないことだってコミュニケーション。最近何かと話題の「距離」も、同じようなものなのかも知れないなと思う。

近いことに意味があるのなら、きっと離れることで生まれる意味もがある。強制的な隔離の中でも、何か見えてくるものはあるんじゃないかと。
不自由の中で、見つけられることもきっとあるはず。色々な活動を奪われても「考える」ことを奪うことはできない。少し無理やりだけど、前向きにとらえようとしています。

(「不要不急」という概念についても、少し掘り下げてみたいっす)

そういえば在宅勤務の承認を簡単にするために、僕の携帯は「り」と打つと「了解です」になり、「お」と打つと「お疲れ様です!」になる。
これもある種の若者言葉なのかな。

そ(それでは今日も一日、楽しくやりましょう!)

居酒屋「たろ」へのバラッド

会社の3階通用門を出た先にある小さな呑み屋がオアシスだった。ちょっとアウェイな職場にいた2年前、10時に仕事が終わると毎日のようにそこで漫画を読みながら一人終電まで呑んだ。たまには2人で。多くても3、4人まで。大勢で盛り上がる呑み方は昔から好きじゃない。

マスター1人でやっている呑み屋「たろ」。竹原ピストルに似たマスターは料理もうまいのに、客が料理ばっか頼んで酒を呑まないと、人気メニューを外してしまうこだわりの人。九州出身だから焼酎の話でよく盛り上がった。僕がストレスを抱えて一人でいたい時は察してくれる気遣いもあった。たろで呑まないと一日を終える事が出来ない。そんな日はたくさんあった。会社に近いのに穴場のような呑み屋。気が合う人しか誘わなかった。大切な呑み屋だった。

ふと気になって夕方尋ねたら「来週からは店を休む」とマスターが言う。ここ2、3日客はゼロだったとも言う。来週からはアルバイトをすると言う。バイトと貸付で店の家賃と生活費は当面は賄えそうだと言う。ビールと焼酎とつまみで1700円。2千円を渡してお釣りはいいですと伝えて帰ったけれど、それは自己満足。かなりの確率で店は無くなる。多くの人にとっての大切な場所であった店は渋谷から無くなる。つまりそれは、あの頃の僕のような人間が頼れる場所が無くなると言うことだ。
満員でも10人程度がせいぜいの呑み屋。最近はそれでも客数を制限していたと言う。換気のために扉は開け放たれ冷たい風も入ってきていた。会社の食堂で食べるのと、立ち食いそば屋で食べるのと、リスクの差異はあるのか。そんな違和感も、今はふさわしく無いと言われるのだろうか。

ルールって何だろう。それは「自分で考えること」の外部化だ。ルールがあることで、人は考えることや判断することから自由でいられる。
あるいは、自分で考えることができない(と思われる)人に対してルールによる強制が必要となる。中学の校則のように。
この危機的状況ではルールの厳格な適用が必要だ。僕の半分はそれに納得している。でもどこか違和感も残る。
僕は混乱している。テレビでは責任者が他人事のように心に届かない言葉を発している。何かがおかしい。少なくとももっと検査を増やすべきじゃ無いのか。初動の間違いは、クルーズ船の対応ミスはなぜ免責されたのか。過去が検証されないなら、今のルールの正統性はどう担保されるのか。危機だからとやかく言うな。そう言った形で次々と新たなルールや機器の「元凶」みたいなものが示され、叩かれる。一つ一つの対応が間違っていなかったかの検証や反省は行われない。日本語で言えばわかる概念を、あえてカタカナ言葉で表しプラカードで掲げてみせる「演出」。何かがすり替えられている。何かが大きく間違っている。なぜ責任と痛みが下へ下へとパスされていくのか。ルールを定める事で、ルール違反の人をバッシングするムードが作られ、何かがガス抜きされる。その構図の外の安全地帯に、ルールを定めた人がいるように見える。僕は間違っているのか。もっと怒るべきじゃないのか。マスク2枚で大喜利しているだけでいいのか。

取り替えができない一番のものは、人の命だ。それには同意する。でも、それ以外のものが全て取り替え可能だとは思わない。「仕方ないよね」と人の職業が無くなることを認められるか。職業はその人にとっての命だ。ひとつひとつの店は、その街にとっての命だ。比喩的な表現に過ぎるかもしれない。でも考えてほしい。特に、何かの権力を握っている人には。命を守るための決断をしていることの重みが、その表情からは伝わってこない。ほとんどトリアージの世界なのに。多くの人の命のために、いくつかの命を危機に晒す決断をしている。その重みと痛みが、決断する人から伝わってこない。僕は間違ったことを言っているだろうか。

明日はもう一度、焼酎を持って店を訪ねる。最近はまってる焼酎は「だいやめ」。若い杜氏の感性と意気込みが伝わってくる芋焼酎を持って、僕はその店を訪ねるだろう。
志村けんが亡くなった時に、多くの人は感じたはずだ。自分の一部分がなくなってしまったような感覚を。大切なものがが失われるとはそう言う事だ。部分的に自分が死ぬという事だ。

できるだけ多くの人に元気でいてほしい。知り合いに対しては特に。自分の中にも、エゴイスティックな気持ちはある。もちろんある。こんな状況では、皆自分を守るのに精一杯だ。この文章もそんな文章だ。僕にとっては大切なものは、でも僕や家族や知り合いの命だけじゃない。あなたにとって大切なものは何ですか。

好きの敗北

目の前のビールを飲み干す事が、苦痛な時がある。
大好きなビールでさえ、缶を開けたら「最後まで飲まなければいけないもの」に変わる。
自分の「好き」が、義務に変わる時。
それが一番手に負えない。
自分の「好き」の脆弱さに気づかされる時。
それが一番打ちのめされる。
 
中途半端に終わった
幼い頃の習い事や
中学の部活や
高校の趣味や
大学の研究や
ふられる事もなかった女の子達が
もう、何を始めたって無駄じゃないのかと忠告しにやってくる。
 
いっその事何もしないで
自分の最後に何が残るか試してみたくなるけれど、
大体その結果もわかっているから、試してみるまでもない。

 

イメージ

朝になったら
目覚めさせよう
眠っていた やさしい気持ちを
大切な人を揺り起こすように
 
 
日が暮れたら
迎えに行こう
どこか遠くへ行っていた 静かな気持ちを
大切な人と待ち合わせた
いつかの夕暮れのように
 

思い出

何年かしたら
きっと聞かれるだろう
「その時 あなたは何をしていましたか」
1995年1月17日
僕は夕方まで眠っていた
 
その時僕は23才だった
まだ親と一緒に住んでいた
やさしい女の子がいなくなって
違う出来事を ぼんやりと待っていた
もっとたくさんの事を
僕は憶えているだろうか
 
僕は何も関係しなかった
僕は2週間で飽きてしまった
なんだか訳もなく苛立っていた
何年かすれば
すべて忘れてしまう
 
急いでいるふりをして通り過ぎた
「すみません」と小さくつぶやいて
僕は通り過ぎたけど
それでどこに
辿り着いたんだろう

 

 (あの頃書いた詩が出てきた)

「あと1年」への新たな戦い

ホッとした気持ちがある一方で、何か微妙な違和感も残る決定でした

「その先/その後」のことも考え始めていただけに。
当のアスリートが一番複雑な思いの中にいると思いますが。

あと1年という時間をどう過ごすか。混迷のなかで見失ったそれぞれの「Road to TOKYO」の物語を、どのように構築し直すのか。

全てを自分たちに都合の良い物語に書き換えようという禍々しい力(しかもかなり優秀)もすでに感じるなかで、僕らが出来る事は何か。

何か、と問うても全く答えはありませんが、不安になると集団化したり、批判を発する事すら封じようとするこの社会において、(延期発言を非難した人は、どう落とし前付けるんだろう)
それぞれが出来るだけ「自分の軸」を持つことを助ける表現は何かとか、考えています。

(実は休暇中なので、時間だけは売るほどある・・)

本当は、それをアスリートの物語で描ければ最高なのですが

 

 #五輪延期 #2020 #東京五輪

迷惑かけてもいいよ

誰かに頼られることは、嬉しい事だよね。
誰かの役に立つことや、助けてあげられることも。

だとしたら、皆もっと人を頼っていいんだと思う。
PSY・Sの昔の歌じゃないけれど
時々は、迷惑かけたっていいと思うんだよね。
(私はかけまくってる)
与えることは、与えられることで、
与えられることでさえ、与えることになりうるという
人間界の素敵な不思議。

コンビニの外人さん店員には
「どーもどーも」とか「ありがとう!」とか言ってみよう。きっと、気分が良くなるよ。
(ならなかったら、それはそれで一つのバロメーター)
言葉は不思議。白魔術であり黒魔術。
できたら前者の使い手に、僕はなりたい。

ポエムっぽいけど、ポエムではない。
と、言い張りたい午前3時。
今、一番美味しい缶チューハイは寳の缶チューハイ
その力で書いているふわっとした文章。250円くらいの家飲み。
幸せは難しくないと、僕は言いたい。

堅苦しい勢力と戦わずに(時には戦うけど)
僕らは大らかに生きていこう。
Living well is best revenge.
的な思いを胸に、もうすぐ寝ます。